「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の仇です。はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。私は、あの人の居所を知っています。すぐに御案内申します。ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい。あの人は、私の師です。主です。けれども私と同じ年です。三十四であります。私は、あの人よりたった二月おそく生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。人と人との間に、そんなにひどい差別は無い筈だ。それなのに私はきょう迄あの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。どんなに嘲弄されて来たことか。ああ、もう、いやだ。堪えられるところ迄は、堪えて来たのだ。怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。私は今まであの人を、どんなにこっそり庇ってあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ、尚更あの人は私を意地悪く軽蔑するのだ。あの人は傲慢だ。私から大きに世話を受けているので、それがご自身に口惜しいのだ。あの人は、阿呆なくらいに自惚屋だ。私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引目ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。あの人は、なんでもご自身で出来るかのように、ひとから見られたくてたまらないのだ。ばかな話だ。世の中はそんなものじゃ無いんだ。この世に暮して行くからには、どうしても誰かに、ぺこぺこ頭を下げなければいけないのだし、そうして歩一歩、苦労して人を抑えてゆくより他に仕様がないのだ。あの人に一体、何が出来ましょう。なんにも出来やしないのです。私から見れば青二才だ。私がもし居らなかったらあの人は、もう、とうの昔、あの無能でとんまの弟子たちと、どこかの野原でのたれ死していたに違いない」
これは、今日行われた籠池理事長の証人喚問における安倍首相に対する発言、ではない。
太宰治の『駆け込み訴え』の一節である。三島の「神の視点」とは対照的な主観最大化天才の太宰の真骨頂という作品である。これは、キリストを裏切ったユダが、キリストへの愛と憎しみ、そして、裏切った理由をまくしたてる、そんな場面だけを一気に描いた作品だ。文庫本にしてたった13Pの作品である。しかし、そのユダのグロテスクな心理描写の迫真性と、心の中に渦巻く愛憎逆説的な感情の相克と、それを語るスピード感で、本当に一気に読める。
私は、今回、籠池理事長をの証人喚問を聞いていて、この『駆け込み訴え』のユダを思い出した。
すなわち、籠池理事長は、安倍晋三を愛していた。恋していた。
安倍首相は、この男の恋心を蔑ろにした。
籠池理事長は、証人喚問の中で何度も安倍首相を「敬愛していた」を繰り返した。
双方向だと確信していた愛が、一方的であったとわかったとき、それがないがしろにされたとき、愛が憎悪にそのまま変身し、牙をむく。今回にはあてはまらないが、ストーカーの心理構造もこれに近い。
安倍晋三は、否、安倍晋三という権力は、一人一人からの愛など関係なかった。そのような愛や憎しみが織りなし収斂された結果の政治権力という「世俗的パワー」の源泉を甘くみていた。もっとわかりやすくいえば、安倍晋三は「人の心」がわからなかった。
過小評価した、いや、安倍晋三が理解できなかった籠池の男の恋心が、事態をここまで動かした。
人の心の総体が政治権力の源泉だとすれば、その核心を理解していなかった安倍晋三は、この人の心のねじれによって足元をすくわれるかもしれない。
もちろん、安倍晋三を駆け込み訴えでいうイエスに見立てたり、籠池に肩入れするつもりなど毛頭ない。まったくない。
しかし、最高法規をはじめとした法規範や慣習、安定性や継続性、信頼や約束、暗黙のルール等、ありとあらゆる規範や論理を軽視・無視してきた政権が、それらよりもはるかに地べたに近い「人の心」の軽視・無視で、その権力を追われるかもしれないという状況に、政治と権力に埋め込まれた人間の業を感じずにはいられないのである。
繰り返すが、今、上に挙げた最高法規等々の源泉も、これまた「人の心」である。
さあ、次はだれの「駆け込み訴え」を聞こうか